旧院長の闘病記

ホーム > 旧院長の闘病記 >

ありがとう。 親父の闘病記(最終章)と新みぶ小児科

元みぶ小児科院長、壬生敦郎(みぶあつお)は、平成16年3月1日午前4時45分に亡くなりました。それほど苦しむことなく、静かに亡くなりました。
3月3日の通夜祭・3月4日の葬儀の際には、大変ありがとうございました。
改めて、お礼申し上げます。
またまたこの話。最終章ですので、お暇がありましたらお読みください。

まず、ご報告をさせてください。
平成16年5月7日、親父の主治医だったM先生から病理解剖検査結果の報告を受けました。大腸癌の全身転移だと思われていたのですが、「膵臓癌、及び、肺・腎・胸膜・骨・リンパ節転移」と判明しました。原発巣は大腸ではなく(大腸の病変は良性腫瘍だったようです。)、結果がわかってからCT、ERCPを見直してもわからないような膵臓癌だったようです。膵臓癌の怖さを改めて思い知る一方で、親父の強さ・頑張りにつくづく感心しました。親父もびっくりしながら、病気の真相を知ることが出来て喜んでいることと思います。親父は、末期癌と分かってから、良いと言われるものはいろいろ試しました。何が効いたのかハッキリ判りませんが、膵臓癌末期StageⅣ-bで、あれだけ元気に長く生きられたのは驚きです。膵臓癌で、初発症状が左下肢の浮腫ということにも驚きました。
「血便が続いていたのを痔だから仕方ない。と軽く考えていたからだめだった。お前も痔主(じぬし)なら気をつけろよっ。」と、ずいぶん悔いていた親父の、「な~んだ。だったら仕方ないなぁ。」という声が聞こえてきそうです。
関係先生方、本当にありがとうございました。
思い返してみると、平成14年の6月末に胸部レントゲン写真・CT画像に肺全体に散在する転移巣と思われる病変をみせられた時、画像はどう診ても末期転移癌のそれでした。「正月を迎えられるかな?」不思議に冷静な二人の医者の意見は一致していました。自分のこと、自分の父親のことなのに、極めて客観的な二人は、無理に命を長らえさせるのは止めよう。出来るだけ長く、苦しくないように、頑張りすぎないように生きよう。でも、少しだけ悪あがきをしてみよう。という意見まで一致していました。
「否応なし」の末期癌告知(?)から足かけ22ヶ月間、親父は死と共に生きました。親父の精神力の強さには、本当の男の強さを感じます。

さらに親父は、家族にたくさんの思い出を残すゆとりを持ち、「新みぶ小児科」の私へのスムースな継承のために相談相手にもなってくれました。
自分の身体は、着実に死へのカウントダウンを始めていたのにです。
平成16年の正月は結局病院から離れられず、富山県からの孫たちを病院で迎えた後から、急に、親父の容態は急降下し始めました。まるで、最低限の目的は果たしたかのようでした。食事をすることは全くできなくなり、中心静脈栄養のみになりました。腸の動きが悪く腹痛を訴えることが多くなり、次第に意識状態も安定しなくなって現実と夢の区別も出来なくなって行きました。看ていてつらかったのは、朦朧とした親父のうわごと(?)寝言(?)のほとんどが仕事のことということでした。
「水分は取れてるかな~。だったらいいのだけど~。」
(脱水症に対する心配でしょう。)
「発作は落ち着いたかな~。寝れてるかな~。」
(喘息発作に対する心配でしょう。)
「ベットは空いているのかな~。連絡しとかないといけないな~。」
(入院ベットの心配でしょう。)
こんな状態になっても、親父は人のために闘っていました。
死と向き合うことに体力と精神力を使い果たした上に、無意識の意識の中で、患者さんを心配して。どこまで医者なのでしょう。
本当に、本当に、親父、お疲れ様でした。

平成16年4月1日(親父が亡くなってちょうど一ヵ月後)、平成15年の春頃から親父と建築士さんと練りに練って設計し、完成を心待ちにしていた新診療所が開院しました。普通、父親が亡くなって間がない内に祝い事はしません。充分承知しています。常に患者さん中心の親父は、自分のことで開院が遅れることは良しとしないだろうと考えてあえて「予定通り」を貫きました。
新しい診療所には、親父の経験と希望、私のアイデアをたくさん盛り込みました。設計には、親父の助言もありスタッフの意見の多くを取り入れました。特に、親父の強い希望で「木」と「光」にもこだわりました。旧みぶ小児科は、コンクリートの冷たい壁で、側面に全く窓がありませんでしたから、親父も、私も、スタッフも、極端に窓と太陽の光と木の温もりに飢えていました。
患者さんがよく接する場所は、小児科診療所として安全を考えて出来るだけ「角」を減らしました。頑張って広く作った待合室の床板には、転んだ際の衝撃を少しでも和らげるようクッション材を挟みました。アレルギーにも配慮し、天然素材にこだわりました。床への嘔吐に対しても検討を重ねました。
待合室は、「子供が待っていて退屈しない様に、子供が来ることが楽しくなるような仕掛けを考えなさい。」と、親父に課題を出されていました。いろんなアイデアを思いついても、コスト、メンテナンス(掃除を含む)、安全・・・などを考えると、現実的には、あまり冒険をすることができませんでした。
旧診療所で評判の良かった玩具の充実、一時間毎にパフォーマンスする「大きなからくり時計」、クッション素材の横になれる広めのスペース、見上げると吹き抜け、その天井に青空の絵・・・etcと、工夫を凝らしました。
親父も満足してくれていると思います。

新しい診療所には、診察室に並べて隔離診察室を作りました。親父が元気だったら親父の診察室を兼ねようと考えていました。結局、親父は新診療所に足を踏み入れることすらできませんでしたが、代わりに微笑んだ親父の写真を飾っています。親父と悩んで考えて作り上げた診療所で働いていると、不思議なことに、親父が傍に居るような気がします。まだ、多くのカルテの前の方のページは、親父の文字も残っています。その文字は、時に、私にアドバイスもくれます。カルテの文字が全て私の文字に置き換わるまでもうしばらくの間、一緒に診療を続けていくのでしょう。
さあ、新みぶ小児科の出発です。
最後にもう一度書かせてください。

親父、お疲れ様。そして、本当にありがとう。

今治市医師會会報 2004年 6月15日号掲載