旧院長の闘病記

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私の闘病記と雑感(1)(壬生 敦郎)

 私は直腸ガンの肺および腹部大動脈周囲リンパ節転移で化学療法中です。
 闘病のいきさつや折々に感じたことを書いてみたいと思います。余り楽しい話ではありませんので、お暇がありましたらお読みください。

 本年5月の連休、私ども夫婦は富山に新居を建てた次女夫婦のところを「新居訪問」と訪ねました。長女夫婦も富山におりますので、両家の中学1年の2人、小学5年、4年の孫たちと和倉温泉、合掌作りで有名な白川郷に近い庄川温泉や砺波のチューリップ祭りなど楽しんできました。和倉の塩湯、庄川の泥湯、一度は訪ねてみたいところです。
 そんなことで、ご馳走攻めでしたから、帰宅しまして下腹部が少々膨れてきたのは体重増加のせいだと考えていました。

 5月15日、定例になっている高血圧治療のためM循環器内科を受診しましたが、その時に看護婦さんから「左の足が腫れてませんか」と言われましたが、大して気にも止めずにおりました。しかし、気をつけてみると靴下のゴムのあとが大きくへこんでいます。
 5月20日、下腹部、左下肢腫張を主訴に再度M先生を受診、血管ご専門のM病院のK先生を紹介してもらいました。
 5月21日M病院受診、エコー、造影CT検査の結果、突発性血栓性静脈炎の診断でワアファリンの内服を続けることになりましたが、腫れの状態は良くも、悪くもならずの状態が続きました。
 6月25日、医師国保定期健康診査をM先生にお願いしましたところ、胸部レントゲン検査で肺の全野に1cmくらいの陰影が点在しているのが見つかりました。
 すぐにM病院に行き、再度造影CTの結果、「腹部大動脈の周辺にも多数のリンパ節肥大がありますので、大きい病院に行かれた方がよろしいと思います。私の治療はここまでにさせて項きます」と言われました。
 進行ガンの宣告でしたが、実感はありませんでした。紹介患者さんの病状経過を聞いているような感じでした。なんだ案外落ち着いているな私は、と考えたのですが、やはり動転していたのでしょう、病院の支払いも忘れて帰ってきていました。

 ガンの告知是か否かよく議論されますが、私の場合は否応なしでした。ただし一般的に考えてこの議論は無意味だと思います。患者本人、医療スタッフの質(最後まで体と心のケアが行き届いてできるか)、周囲の家族や友人の援助が期待できるかなどによって、答は変わってくると思うからです。
 思い出してみますと医師になりたての若いころの病院夜間当直の時には、「末期ガンの患者さんが痛いといっておられますが」という病棟の連絡に、「2時間前にモルヒネ打ったでしょう。もう少し我慢してもらってください」と返事していました。申し訳ないことをした今になって反省しきりです。治る見込みのある病気では痛みも辛抱できるかもしれません、しかし、ガンとわかっていて治る見込みはないとわかっている患者さんに痛みをどう辛抱しろというのでしょう。このように24時間十分なケアができないときはガンの告知はするべきでないと思うのです。

 6月27日、今治県病院でⅠ院長先生の診察を受けました。「やはり悪性のものが疑われるので、どこが原発部位なのか調べる必要があります。明日大腸検査を予定します」とのお返事でした。特別な感慨も沸きませんでした。完全にまな板の鯉の心境でした。早速、国立病院岡山医療センターに勤務しておりました息子、真人に連絡をとりましたところ、「有給休暇がいっぱいあるから休暇を取って帰ってみるわ」との返事でした。真人が大きな病院に勤めていて、周囲に大きな迷惑もかけずに駆けつけてくれたおかげで、このところちょこちょこ休診にしている病院の代行者が見つかりましたので一安心しました。

 6月28日、大腸内視鏡検査を受けました。5~6年前にも検査を受けていましたし、少々恥ずかしいことを除けは検査に対する心配はありませんでしたが、大腸のどこにどんなものがあるのかが心配でした。
 もともと40年前からの年季の入った痔病持ちでしたから、なんとなくガンのもとは大腸にあると妙な確信がありました。院長先生の診断とお話は「直腸にガンが見つかりました。この腫瘍が原発ですべての所見が解釈可能です。今後のことについては、いろいろとお知り合いの専門医もおられるでしょうから、どのようにされるかよく相談してみてください。もし県病院でできることがありましたら全面的に協力させて頂きます」ということでした。
 ちょっと憂鬱になったというのでしょうか、やっぱりなと落ち込んだ気分になりました。

 E・キュープラー・ロスは死に行く人々から学び取った末期疾患の最終期における対処メカニズムを報告しています。
 末期疾患の報告を受けた患者は「違います。ばくは違います。それは真実ではあり得ない」という否認と隔離(孤立化)、次いで「なぜ私が?」という怒り、第三段階は「何かしたいことが終わるまでは」という取り引きになり、第四段階は抑鬱となり、第五段階で「お召びだしがきた、わたしは旅の支度ができている」の受容の境地に達するということです。これらの考えは根本にキリスト教がありますので日本人にはぴったりしないのかもしれませんが、私の心境はどの段階なのでしょう。否認、怒り、取り引き、抑鬱ではありません。受容というような境地でもありません。今は痛みもなく、呼吸困難もなく、咳込みなどもなく、苦しみもなく、ただ足と外陰部の腫れだけですから、事態を真剣に受け止めていないいいかげんな状態なのでしょう。

 さて、院長先生のお話を受けて主治医M先生のご意見は、今の体力の充実している時に直腸の病巣を取り除いてもらったらということでしたが、私と真人は転移していたら多分手術は無理だろう、だったら京都や松山の専門医にお願いしても仕方がない、県病院に全てお任せしようという結論でした。

 今治県立病院は私の医療の原点であり、人生の最も充実した時期を過ごしたところです。昭和33年に大学を卒業して、1年間のインターン、1年余の関連病院出張期間は外来診療を学びましたが、大学にいる時は、入院中の難病患者の治療と研究が主でした。研究は「蛋白結合型リポ酸の生成におよぼす食事組成の効果」と題するもので(多分リポ酸と聞いても、何のことだと思われる方がほとんどでしょうが、ビタミンBとおなじような補酵素です)、放射線でラベルしたリポ酸を使用しましたので、現在の直腸ガンの誘因になっているのかもしれません。
 放射線を取り扱う若い研究者は、その防護対策には十分気をつけてほしいものです。

 さて、研究の成果は後にどれだけ引用論文として活用されるかにかかっていると思うのですが、私の論文は別冊請求が2件だけしかありませんでした。ただ物事をつきつめて考える態度、論文の検索、論文の書き方を学んだのがプラス、直腸ガンの誘因になったかも、そして医学博士になっても給料が上がるとかのメリットがなかったこと、実験で沢山のマウスの首をちょん切ったことはマイナスでした。
 といった経過で、私の外来診療の基礎や技術は今治県病院で学び、勉強したのがすべてのように思います。昭和39年、私が今治県立病院に赴任した時は、病院は常盤町、現在の図書館の場所にあり木造2階建て昔の小学校のような建物でした。こぢんまりしていまして医師も9人で、職員全員が家族のような雰囲気で、2歳・0歳の娘、後に県病院で生まれた真人の子育てには随分と協力してもらいました。県病院に勤務していた時期が人生のもっとも充実した時期でありましたし、最も楽しかった時期でもあります。

 このようないろいろの事情から、全てを今治県立病院にお任せしようと考えたのです。
 7月1日、院長先生とお会いして以上の決意とお願いをいたしました。院長先生は「これは大事なことだから、一度はセカンドオピニオンも聞いておいた方がいいでしょう。国立ガンセンター松山病院に紹介状を書きますので受診してみてください」とのことでした。

 7月2日、国立ガンセンター松山病院を受診しました。私は選択肢として(1)何もしない、(2)化学療法のみ、(3)化学療法+最低限対症療法的手術、(4)化学療法+根治手術の4方法を考えていたのですが、診察してもらったH先生は「現在直腸からの大出血、狭窄などの心配はありません。リンパ節腫大による尿管の圧迫が心配ですが、いまのところは今治県病院で化学療法を受けてください。今治県病院にはここにいた医師がいますし、また、いつでも連絡をとり合うことはできますから。ただし、化学療法の効果期待率は約30%程度であることはご承知ください」ということでした。  (続く)

今治市医師會会報 2002年11月15日号掲載