旧院長の闘病記

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親父の闘病と息子の雑感(4) 闘う親父の背中

 6月15日号に親父が「最後のときはひっそりと・・・」などと寂しい投稿文を書いてから半年が経ちました。「親父~、まだ元気ですの訂正原稿を書くべきじゃないか?。」と冗談を言い続けていたら、丁度私に原稿の依頼が来ました。
親父は5月の連休頃より、長時間座っているのが辛いということで仕事は全くできなくなっていました。

 平成15年6月1日、「みぶ小児科医院」は「みぶ小児科」になり開設者も私が譲り受け、6月4日、私の次男が誕生して親父は晴れて「楽隠居」のはずだったのですが、6月5日に腰椎と仙骨に転移(?)が発覚しました。
今思うと、この日から親父の本当の闘いが始まったように思います。親父もそう感じたのでしょう。寂しい投稿文はこの日で終っていました。
私が親父に代わって、引き続き親父の経過と現状をお伝えしようと思います。

 腰椎と仙骨の病巣が見つかってから、主治医と放射線科の先生との相談で、放射線を当てて病巣の進行を抑えようということになりました。
 6月23日から7月29日まで県立松山中央病院に放射線治療のために入院。
松山城の見える見晴らしのいい病室に親父はご機嫌でした。
 7月5日、週末の親父の外泊日にお袋と三人で道後温泉に一泊しました(私の妻と息子達はまだ里帰り中でした)。親父と久し振りに二人で風呂に入って、いつもの様に仕事の話をしました。親父にとっても私にとっても楽しい時間です。
 私は開業医になって、患者(親)への対応がいかに難しいか痛感しています。紳士的で穏やかに見えて内では「瞬間湯沸し器」の親父が、常に心の底から穏やかに外来診療を出来ていたとは思えません。血が許さないはずです。かっかし易い性分はどうしたら直るかな~と問う私に、二人露天風呂に浸かりながら教えてくれました。
「だいぶ昔の話だけどね、診ていた患者さんが肺炎になってそれはそれでよかったんだけど、その人がもう一度来ることがあってね、子供を連れて来ずに薬だけくれと言うんだわ。」
「で?。」
「子供を診せてもらわないと出せないと言ったらね、ど~せ診ても肺炎になるんじゃろがね。と言われてね、さすがに、アンタんとこは診れんっ。他所へ行ってくれっ。と言ってしまったんよ。今でも後悔しとるよ。そんなのはいっぱいあるさ。急には直らんさ。時間と経験で賢くなっていくんよ。」露天風呂からは、松山城と三日月が見えていました。

  8月26日から8月29日まで県立今治病院に点滴化学療法のために入院。
 10月6日から10月 9日まで県立今治病院に点滴化学療法のために入院。
いつもの定期的な短期治療入院の繰り返しで、私には学会出張にでも行っているような感覚でしたので、お見舞いにもほとんど行きませんでした。県立中央病院退院後、腰痛で続けて座ることが難しくてベットで横になる時間が増えてきましたが、元気で食欲もありました。

 私が「みぶ小児科医院」を手伝うようになってから、私が一日の仕事を終えて会計報告と郵便物を実家に届けて少し離れた自宅に帰る時、親父が玄関先まで送ってくれるのが日課になっていました。断っても断っても親父が続けていたことです。最初の頃は、「お疲れ様。気をつけて帰れよ。」の言葉は「ありがとう。」の様に聞こえていましたが、親父が仕事をしなくなった頃から「頑張れよ。頼むぞ。」と聞こえ始めました。私の気持ちの変化もあるのかもしれませんが、痛む体をムチ打って繰り返される応援に応えない訳にはいきません。

 10月最終週に入った頃から、その応援の言葉は「ごめんよ~ここで。気をつけて帰れよ。」に代わり、場所は居間に代わってしまいました。
 10月30日、数日前から「歩きにくい。歩こうとすると急に足の力がフッと抜けてしまう。私もM先生のような杖が要るなあ~。」と言っていた親父に、ちょっと高級な紫檀の杖をプレゼントしました。少し歩いただけで崩れるようにしゃがみこみ始めた親父を見て、今まで下肢と外陰部の腫れと腰の痛みを訴えるだけで実感の無かった「癌の存在と姿」を、この目で見たような気がしました。何か形のあるもので親父を応援したかったのです。

 11月に入ってから腰痛が激しくなり、そのため始めた痛み止めの副作用からか嘔気と嘔吐も出現し、加えて、急に両下肢の感覚も鈍くなり歩行も危なくなってきました。
 11月11日、症状のコントロールを目的に予定を繰り上げて県病院に入院させていただきました。入院時、歩くことはできなくなっていました。
紫檀の杖は、わずか数回主人を支えただけでした。
 入院後すぐに、痛みのコントロールと引き換えに腰から下の動きと感覚を失いました。もちろんオムツ着用で、自分で換えることもできません。どんなに屈辱的なことだったかと思うのですが、親父は笑って受け入れていました。強い男です。吐き気はなかなかコントロールできず、しだいに食事も十分に取れなくなってしまいました。
 12月24日、強い貧血発覚。
 12月25日・26日、MAP輸血。
 同日から何度か輸液の繰り返し。

 平成15年の年の暮れ現在、正月に富山県から孫たちが遊びに来るのを楽しみにしています。少しばかり涙もろく、お袋に甘えることも多くなりました。
 親父に頼まれていることがあります。平成14年7月にM病院では「突発性血栓性静脈炎」と診断されていました。下腹部と左下肢の腫れの症状しかなかったからです。転移性が疑われる肺病変・腹部大動脈周囲リンパ節病変と大腸癌が見つかってからも、その関係ははっきりと分かっていないままです。6月に見つかった腰椎の病巣も含めて、病理検査で分かった高分化型の「たちの悪くない」大腸癌との関係を明白にして欲しいと言うのです。死んでなお医学者として役立ちたい。ということです。どうか関係先生方、お願い致します。
 あの親にしてこの息子。私も今治市医師会報を厚かましくお借りして、私用に使わせて頂きます。

 親父は、「盆も正月も夜も休日も仕事仕事、家族との時間をもっと大切にしたらよかった。それが一番後悔していることだ。おまえは大切にしろよ。」と繰り返し言います。多くの医者が多かれ少なかれその傾向にはあると思います。確かに、私の少年時代に家族旅行の記憶なんて物は皆無です。しかし、日曜日診療までの間、早朝から私を投げ釣りに連れ出して釣りバカを作成したのも、診療の合間数分のキャッチボールとノックの積み重ねで私を野球小僧にしたのも親父です。人生の最後まで、男を、医学者を、貫く背中は格好良過ぎます。
 物心ついた頃から「みぶ小児科の子」と言われ続け、「絶対継ぐもんか!」と言い続けていた私も、結局同じ道を選び、今は仕事が楽しめるようになっています。親父が親父でなければ今の私は無いでしょう。

 みぶ小児科は新しく建て替えています。親父の夢だった「広い待合室と広いトイレの新病院」は4月1日開院予定です。親父の誕生日は3月15日。諸事情で少し遅れるけれど親父の70歳、古希のお祝いになるでしょうか。無理をしない程度に頑張って、もう少し闘う親父の背中で勉強させてください。

今治市医師會会報 2004年 2月15日号掲載