旧院長の闘病記

ホーム > 旧院長の闘病記 >

私の闘病記と雑感(3)(壬生 敦郎)

 第2回目の本格的な入院生活は40日でしたが、最初は毎日検査がありましたので退屈することはありませんでしたし、本格的な治療に入ってからは、丁度夏の高校野球の愛媛県予選、甲子園の全国高校野球選手権大会が時間つぶしの役に立ってくれました。開会式をテレビでゆっくり全て見たのも初めての経験でしたし、大会8日目の愛媛県川之江高校と埼玉県浦和学院の試合はマネージャーがスコアをつける時のように詳細に見て興奮、感激しました。

 病院生活で最も気になったのが食事です。栄養士さんが病室まで調査に来られて一所懸命やっておられるのは分かるのですが、兎も角全体に薄味過ぎるのです。ただ40日のうちに1回だけ八宝菜が出た時には「美味しい」と声が出ました。朝食はパン食にしてもらったのですが、やはり美味しくない。一人病室で食べるのは何を食べても美味しくないのかもしれません。歩ける人だけでも食堂に集まってわいわい食べると、同じ食事でももっと美味しく食べられるのでしょう。

 大変ありがたく感謝しているのですがM先生からは、ほとんど毎日のように励ましのお葉書を頂戴しました。そのお返事を書く以外は本を読みました。
 「老いてこそ人生」石原慎太郎。
 「海峡」伊集院浩。
 「天の夜曲」宮本輝。
 「パレード」吉田修一。
 「象が歩いた」02年ベストエッセイ集。
 入院当初はピクニック気分で読んでる本は傾向もはっきりしない乱読でしたが、少し足や下半身の腫れが増加してきますと、読書の興味がガンや生死に関するものに傾いてきました。
 「死ぬ瞬間」キュープラ・ロス。
 「釈尊救世の法則」小野兼弘
 「ガンと向き合って」上野創。-26歳で睾丸腫瘍を発病した闘病記です。-
 「ガンこのアガリクスなら闘える」
 「聖の青春」大崎善生。-ネフローゼと膀胱ガンと闘いながら棋聖・王位・王将戦などに挑戦する棋士村上聖の話です。-
 「僕はガンと共に生きるために医者になった」稲月明。-愛媛県出身の内科医です。肺ガン発病までは喜多医師会病院に勤務。-
 この本は私に強烈なインパクトを与えました41歳の発病なんて私より27歳も若いじゃないか、肺ガンなんて、私の直腸ガンより大分たちが悪いじゃないか。こんなつらい状況に耐えている人がいるのに私なんかと、私に妙な勇気と励ましを与えてくれました。そして書いておられることの中に興味がある事項が数多くあるのです。

 稲月先生は入院して積極的に化学療法を受けている理由として(1)化学療法により長期生存例が皆無ではない。(2)最新の化学療法を受けることで医学界に恩返しができる。(3)入院治療を受けていれば傷病手当金や入院保険金などの収入がある、と3項目挙げておられます。私はまったく違いました。例え30%でも効果が期待できるならやってみよう。もし副反応が強かったらその時に立ち止まって考えよう程度の気持ちでした。
 高齢者の医療、特に末期医療についても熱心に書いておられます。末期の延命医療が必要かどうか、高齢者の定率負担は必要ではないかの問題提起は耳を傾けるべきです。私は回復の見込みのない高齢者の延命治療は、家族が全額自己負担してでも生きていてほしいと考えるかどうかにかかっているから、医療費負担を50~100%にしてもいいのではと考えています。極論ですが。

 9月24日、外来治療
 入院中と同じカイトリル・アイソボリン・5FUの点滴がCVCを通じて行われました。13:30より診察・検査時間も含めて19:30までかかりました。
 10月 3日、同じ治療。
 10月10日、同じ治療。
 10月17日、同じ治療。
 10月24日、同じ治療。
 10月31日、同じ治療。
 1クール終了して次回CT検査で効果を判定することになりました。
 11月13日、造影CT。
 11月14日、外来診察。
 昨日のCT検査の結果、肺陰影の拡大と陰影の数の増加がみられるので、再々入院の上新しい抗ガン剤の医療を試みてみたいと主治医T先生のお話でした。

 10月12日京都で同窓会があり出席しましたが、ついでに奈良に行って神社・仏閣・仏像に病気退散をお願いして回りました。歩き過ぎたためか、その頃から左下肢はパンパンに腫れ、下腹部腫脹もひどく、陰茎、陰嚢も腫大し、完全包茎の子どものようにおしっこがどちらを向いて飛ぶかわからない状態になり、股間にテニスボールをはさんだようで歩くのに不自由を感じるような状態になりました。しかし食欲は旺盛で外見上はどこが悪いか分からないほどでした。

 11月1日、愚息真人、愚妻トシ子、T先生と今後の方針について相談。
 T先生のお話は(1)現在の抗ガン剤に耐性がでてきたこと(2)いまのままだと後6ヵ月くらいの命しか望めないこと(3)再々入院して新しい抗ガン剤を試してみたいこと-だったようです。

 11月22日、再々入院。
 内緒ですけど、前回入院時はかばんの奥に焼酎のパックを入れていたのです。毎晩睡眠薬代わりに焼酎を飲むのが習慣になっていたので、入院しても見つからないように続けるつもりでした。ところが入院したら蓄尿を指示されてしまい、飲酒は見つかるだろうと計画は断念しました。
 今回は入院道具から焼酎を追放した代わりに囲碁ソフトを入れたパソコンを持っていきましたが、ずいぶん役に立ちました。

 11月27日、新しい治療。
 国立松山病院四国ガンセンター治療スケジュールに従ってCPT-11(塩酸イリノテカン)、MMC(エンドキサン)静注、2週間休薬を1コースとして4週毎に繰り返す治療法です。
 12月11日、同じ治療。
 12月18日、退院。
 治療により全身の脱毛以外は副反応も少ないので外来治療に切り替えようということで退院しました。
 今回入院中に読んだ本は---
 「がんばらない」、「あきらめない」鎌田実。-諏訪中央病院院長で熱心に末期医療に取り組んでおられます。-
 「釈迦」瀬戸内寂聴。-生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の釈迦の教えを覗くことができました。-
 「告知」熊沢健一。-スキルスが見つかった妻と東京女子医大の医師と3人の子供たちとの1年間の記録、告知の悩みが涙涙でした。-
 「野の花診療所まえ」徳永進。-鳥取市でホスピスケアを熱心にやっておられます。-
 「命とは、生とは、人生とは」中野良介。-ガンが発見された医学生の息子を見つめる和歌山医大産婦人科教授の手記。-
 「医者が末期ガン患者になってわかったこと」岩田隆信。-昭和大脳神経科助教授。-
 「椿山課長の七日間」浅田次郎。-肩のこらない小説。一旦死んだ人が娑婆にもう一度戻ったら。-
 「医者が癌にかかったとき」、「癌にかかった医者の選択」竹中文良。-この本、特に後者は入院中何度も読み返しました。最後まで闘うか、自然死を受け入れるかの問題です。-

 平成2年11月3日日本医事新報で紹介されたR・M先生、西川喜作先生その他多くの末期ガンの人々がどのようにガンと闘ったか大変興味があります。私はどこまでガン細胞と闘うかまだ真剣には考えておりません。いつかその日が来ることだけは頭を離れることはありませんが、まだまだ先のこととのんびり構えているようです。「もういいわ。簡単に治る病気なら治りたいが、苦悩に満ちた日々がつづくようなら、適当なところで、折り合いをつけて終わりにしたい」と書かれている心境には同感です。
 「家庭の医学」レベッカ・ブラウン。「日本人の生死観」川上武他。「今、死のありさま」広岩近広。「阪大医学生が書いたやさしいがんの教科書」など。

 第1回入院から、ダンベルを持った散歩も、体重を維持するための油物およびナッツ類禁止も中止して食べたい放題(特に豚カツが大好物です)しましたので今回の入院までに体重が10kg増加してしまいました。階段を上がると息切れがするのですが、肺腫瘍のせいではないかと考えて正月には大阪のUSJで孫たちを全部集めて楽しんできました。
 1月 9日、同じ治療。
 1月23日、同じ治療。
 2月 6日、検査および診察のみ。
 2月20日、CT検査、同じ治療。
 進行が予想よりかなり遅いです、今の治療が効を奏しているようですので、今のまま続けましょうと先生のお話でした。
 3月 6日、同じ治療。
 3月20日、検査および診察のみ。
 4月 3日、CT検査、同じ治療。
 主治医がT先生よりM先生に変わられることになりましたが、M先生のお話ではCT検査に変化がないので今の治療を継続しましょうとのことでした。
 胸部のレントゲン写真や下肢・下半身の腫れなどは徐々に増悪しているようです。しかし、自覚症状はまったく変わっておりません。時々外来診療も手伝いながら、何でも食べて、椿、菜の花、桜の花も十分楽しみました。今は嵐の前の静けさかも知れません。なるだけ長く続いて欲しいものです。

 ところで今回の治療では、全身の脱毛が激しく起こりました。頭髪の中に指を入れると固まって髪の毛が抜けるほどでした。しかし、1ヵ月もすると産毛が生え出したのです。薬の効果がなくなったのか少し心配ではありますが、大変嬉しいことでした。頭部は白い産毛が、恥部は黒い産毛が生えてきましたが、どうして全部黒にならないのでしょう。

 さて最近、すこし自分の最期のときのことが気にかかり始めました。ひっそりと点滴の管なども除けてもらって、ベートーベンやマーラーの葬送行進曲ほど大げさなものでなく、美空ひばりや石原裕次郎をメインにちょっぴり気取ってモーツアルトのレクイエムが少し、かすかに流れているところで家族と一緒の時間が過ごせたらいいななど考えています。
 告別式はひっそりと密葬にして欲しいものです。

 最後に今治市医師会報をお借りして厚かましくて心苦しいのですが、皆様にお礼とお願いを申しあげます。
 昭和39年今治に参りまして、医師会の仲間に入れて頂き、医療事故も起こしましたし、皆様に数多くのご迷惑をおかけし、また、お世話になりありがとうございました。心よりお礼を申しあげます。

 そして最後になりましたが、毎日ご多忙な皆様に余分なご負担をおかけしたくありませんので、闘病中のお見舞いおよび闘病に敗れた際の告別式へのご出席・ご供花は謹んでご辞退させていただきます。この件につきましては愚息真人の了解も得てありますのでよろしくお願い申しあげます。
 ただできましたら1分間だけお時間を取っていただき黙祷をもって彼岸に送り出していただけたら嬉しゅうございます。
 また告別式の後でお参りいただきましても、何かと取り乱しております家人がどんな失礼を申しあげるか大変気懸かりです。お気遣いご無用にお願いします。

 どうぞ重ね重ねの私の我が儘をお聞き届けいただきますように伏してお願い申しあげます。
 いろいろありがとうございました。

 付記;謹んで訂正させて頂きたいことが2つでてきました。しかも、上記原稿完成後続きが出てきましたので追加させていただきます。
 まず訂正その一。6月までの命といわれましたが、まだしぶとく、元気に頑張っておりますので死亡予定日を訂正させていただきます。
 5月19日、新しい治療スケジュールのため入院。
 経口抗ガン剤TC443(Ts-1)100mg内服4週間、途中でシスプラチン点滴静注を行いました。そこで訂正の第二。県病院の食事が美味しくないとたびたび書きましたが、今回入院してみると大変美味しいのです。ただシスプラチンの注射をしてからは食欲が極端に落ちましたので、美味しくないと感じていたのは、私の体調のせいだと思います。

 5月26日、整形外科受診。
 3月の終わりころから、少しずつ腰痛がでたり、下肢がしびれることがありましたので、整形外科を受診しました。単純腰椎レントゲンでは異常がみあたりませんが精密検査をしてみましょうということでした。
 5月30日、骨シンチ。
 6月 5日、MRI。
 腰椎Ⅱ、Ⅴ、仙骨に転移巣がみつかりました。多分、この部分については放射線治療を受けることになりそうです。
 徐々に坂道を下り始めたようです。九州にいる母や妹たちにも会って墓参りもしたい、富山に行って孫たちにも会いたい、したいことはまだいっぱいあります。1日、1日を大切にしながら、もう少し頑張るつもりです。

今治市医師會会報 2003年 6月15日号掲載